2022年12月23日
関東地区
横浜国立大学 理工学部
私たちの研究グループは海洋汚染に関する研究を行っています。この研究は、「沿岸域から取れる水産物を食べる行為に伴うリスクは、どの程度のものか?」という問いを立て、その答えを得ようとする取り組みです。ここでいう「リスク」とは、沿岸域に存在する海洋汚染物質が原因で海に生息する生物の健全さが低下する程度、また、沿岸域から獲れる水産物を摂取するヒトの健康への影響の程度のことです。海という空間でこのリスクがどのように分布しているかを解き明かすことを最終目標としています。沿岸域は今後、水産・エネルギー・レジャー等の分野でますます広範囲に高頻度に利用されていくことが予想されています。そのような海に発生する汚染に目を向けて、食としての水産物に、安全という品質保障を与えることを目指しています。
海は様々な用途で利用されています(図1)。用途を大まかに二つに分けると動脈利用と静脈利用とがあります。動脈利用には水産物(漁業、養殖)、自然エネルギー、鉱物資源などを獲得する場、陸地を拡張するための場としての利用があります(海からヒトが何らかの恵みを得ているという意味で、人体の中で動脈が果たしている役割になぞらえて比喩を使っています)。一方、静脈利用は、下水の最終的な放流先、意図しないで放出された廃棄物等の溜まり場として利用することを意味します(海が、ヒトが捨てたものの受け皿になっているという意味での比喩表現です)。
私たちの研究は静脈利用に着目したものです。我々が捨てたものの後始末に関する研究と言い換えることもできます。動脈を対象とする研究は、企業や大学の多くの研究グループによって行われています。それとは対照的に静脈を対象とする研究はあまり多くありませんが、以下で述べる2つの背景(未解明な海洋現象過程、問題の複雑化)により、大学で行うことに意義がある取り組みであると考えています。
上記の海洋汚染物質として、この研究で対象としている物質は難分解性有機汚染物質(POPs)と呼ばれる物質群です。例えば、PCB(ポリ塩化ビフェニル、主な用途:絶縁体、塗料)、DDT(ジクロロジフェニルトリクロロエタン、主な用途:殺虫剤、農薬)などがあります。様々な環境問題の中でも海洋汚染は、それが顕在化し社会問題視されてから半世紀以上経過しています。比較的長い歴史を持つのですが、未だ解決できていないばかりか、さらには複雑化が進んでいる問題でもあります。
海や川といった水圏で起きた汚染の事象として代表的な水俣病やイタイイタイ病があります。これらの事象では健康悪化が比較的急激に表面化したことから、原因化学物質の特定から発生/波及メカニズムの解明までの一連の取り組みが或る特定の期間に集中的に実施されました。その結果、科学的な因果関係の特定は、ある程度達成したといえます。一方、健康の回復、患者の法的認定など、医学的・社会的・政治的な問題は残されています。しかし、水俣病に関して海という観点から解明の歴史を振り返ると、原因(アセトアルデヒド生産工場からメチル水銀が排出されたこと)と結果(不知火海付近住民に神経系の中毒症状が出たこと)との間にある過程、つまり海洋でどういう現象が起きたのか、については未解明なまま残されています。
今世紀に入って以降、ますます多くの化学物質が開発・製造されてきています。有害性が検知され使用が禁止・制限された物もあります。環境中の有害物質として注意を要するのは難分解性(自然界で分解しにくい性質)を有する物質群です。健康への影響が判明してから数十年経過している物質であるにもかかわらず問題視するべき背景のひとつが、この難分解性です。生産や使用が規制されても、既に環境中に負荷された分、さらに、規制後も少量ずつ漏出する分が存在します。難分解性のためなかなか消失しないので、現在でも海水中や海底堆積物から検出されることが報告されています。有害性をもつ物質は今では国際条約や国内法による厳正な規制のもと管理・処理されることになっていますので、半世紀前に比べれば大量の汚染物質が短期間に排出される急性的な事象の頻度は下がっていると思われます。しかし、汚染の頻度と規模が下がったことが逆に、使用・廃棄後における変質・輸送の実態を分かり難くしたともいえます。つまり汚染事象の慢性化への懸念があります。
海洋への負荷・輸送・生態系への侵入の実態は断片的なことしか分かっていません。昨今では、ますます多くの化学物質が新規に創出されては色々な用途で使用されていること、微細なプラスチック微細片(海洋プラスチック)と有機汚染物質とが共存すると汚染物質が濃縮されるという指摘もされています。この現状を踏まえますと、「関与している現象を解明する」という科学的探究と、「リスク情報を社会に提供する手法をつくる」という工学的開発との両方の性格を併せ持つ取り組みには重要な意義があるといえます。
未解明な問題があること、問題が複雑化していることを受けて、本研究を始めるに際し私たちの研究グループでは、次の様に動機づけを行いました。現代では健康を脅かす物質の処理には厳しい規制が敷かれていますから海洋汚染に対して、ある程度の未然防止はなされているとはいえます。しかし、ここ数十年間の間に新たに開発された化学物質の種類は多数存在しています。また、ある単一の場所(例えば工場の排水口)から大量の放出というタイプの負荷源が減少した半面、負荷源が散らばった可能性があります。さらに、少量ずつで継続的な負荷に起因する海洋環境リスクについては従来の知見はほとんどありません。まさにこの点に、新たな取り組みを行う動機が生まれます。
規制を厳しくする方向の未然防止のみによって完全解決されたと認識するべきではなく、また昭和中期と現代とでは汚染の方式が変質したと捉えるべきです。したがって、変質後に合わせた形で研究のあり方を設計することを心がけています。汚染物質の多様化・汚染経路の複雑化・負荷の慢性化に対して解答を出せる手法は現時点で存在しません。また、現代ではリスクを社会に分かりやすく提示すること(環境アセスメント)が求められています。そこで、新たな汚染方式に適切に対応でき、かつ社会へ結果を提供できる新たな環境リスク評価手法の創造を目指しています。
上記の目的を達成するため私たちが主たる研究方法として採用したのは、現象のモデル化(実際に起きている現象の本質を抜き出してそれを数学的に表現した理論系のこと)ならびに数値シミュレーションです。これは、潮の流れ・魚の動き・生物身体内での物質の動態など、空間規模と学術分野とが広い範囲にわたる複数の現象をモデル化し、そのモデルの解をコンピュータで求める方法です。この方法は、「この場所ではリスクが高い、あの場所では低い」という風にリスクの分布を社会に提供するという目標を実現するために最もふさわしいものです。シミュレーションに基づいた、環境リスク分布を分かりやすく提示できるソフトウェアの構築が最終目標です(図2)。
もちろん、数値シミュレーションの結果は現実の模擬であって、現実そのものではありません。作ったモデルは実際の現象を十分に再現できているのか、結果として出力されるリスクの値は妥当なものかどうか、常に確かめなくてはなりません(図3)。モデルの構築作業中に必要に応じて現場観測を実施し(図4)、現場で起きている現象と、コンピュータで再現を試みた現象とを比較することを通じてモデル性能を評価しています。その結果、不十分な点があればモデルを改良し再度、検証することを繰り返していきます。
図4 船舶を用いた現場観測の様子
本研究の最終段階では、海水の流動・海水中での物質の動き・魚の動きなどに加え、魚の体内機関における物質動態・ヒトによる漁獲と摂取・健康影響の発現といった量も計算の対象とすることを目指しています。従来、異なる学術分野がほとんど交流することなく、それぞれの学術分野が守備範囲とする対象とする現象を独立に扱ってきました。学術分野が異なると現象の時間・空間規模が懸隔していることが要因のひとつといえます。自然と人間とが関与する複数の現象が織りなす複合現象をなるべく統合的に捉えようとする本研究においては、この従来型の態度では研究が進みません。様々な学術分野を統合していく本研究は、専門に細分化した伝統的な工学の姿勢とは異なりますが、社会の中で起きている、あるいは起きうる問題に対して解答を提供するために、それを可能とする手法を実際に作り込んでいく姿勢を堅持しています。これは問題発見と問題解決の両方を包含する研究姿勢です。
私たちは、所属している学科や学会での伝統的な学問分類にはあまり拘泥されずに、必要に応じて異なる分野をまたぐ課題を設定して作業を進めています。研究グループの構成員は流体力学や数値計算法を既に勉強してきた人が多いので、それを基礎にしつつ、その上に海洋物理学、海洋生態学などの基礎を上積みし、さらに確率統計学などから獲得した知恵を統合していきます。最近では、海に生息する生き物の食物連鎖、汚染物質の蓄積、ヒトの食習慣や育児などをモデル化するために生理学、家政学なども勉強することがあります。別分野で扱われてきた現象を統合することで新たな発見に繋がることがあります。この研究をする醍醐味はこの点にあると感じています。
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