『錨を上げよ!』
このような表現を聞いたことはあるでしょうか?映画や小説などで一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。「錨を上げよ!」は錨泊中、つまり錨を使って海上で船を係留している状態から出航する準備をせよという意味なのですが、ここで「錨」について思い浮かべてみてください。もしくは下の写真の中から錨を探してみてください。船の大きさに対してとても小さいですよね?錨は船や港のシンボルとしてよく用いられるモチーフですが、船はこのような小さい道具で錨泊されているのです。そして、錨は時に嵐の中でも船が押し流されないよう船を繋ぎ止めています。
では、そのような小さな道具である「錨」はどうやって船を繋ぎ止めているのでしょうか。ここでは「錨」が生み出す力の仕組みを解説するとともに、それを簡便に体験する方法を紹介したいと思います。
まず、基本的な情報をいくつか紹介しましょう。
“いかり”を漢字に変換してみてください。すると、“いかり”の漢字として「錨」と「碇」が出てきます。どちらが正しい漢字なのでしょうか?もしくは同じ“いかり”を指す漢字なのでしょうか?正解はどちらも船に用いる“いかり”を指す漢字です。では、どのように使い分けるのかというと、製鉄の技術が発達する以前に用いられていた石や木材を用いた“いかり”に対して「碇」の字を用い、それ以降の全体が鉄で作られている“いかり”に対して「錨」の字を用います。部首に着目するとその使い分けについて納得できると思います。ここでは主に現代の“いかり”を例に話を進めますので「錨」の字を用います。
錨は英語で「Anchor(アンカー)」といいます。アンカーという言葉から錨以外に思い浮かぶものはないでしょうか?そうです、マラソンの最終走者を「アンカー」と呼びますよね。実はこのアンカーの語源は船の錨からきているのです。船による航海では嵐に遭遇することは多くあります。まだ蒸気機関や内燃機関が発明されていない時代、船は帆と舵を用いて主に風の力によって航海を行っていました。そのような中で嵐に遭遇したとき、船の海難を防ぐ最後の切り札、頼みの綱として頼りにされていたのが「錨(アンカー)」でした。そこからマラソンの最終走者を最も重要な最後のランナーとして「アンカー」と呼ぶようになったのです。
錨の種類は大きく分けると「ストックアンカー」と「ストックレスアンカー」に分けられます。ストックアンカーは写真2にあるように主にストック、シャンク、フルークで構成される錨で、錨が曳かれたときストック先端を起点としてどちらかのフルークが海底を掻き、ストックが錨の姿勢を安定して保つという構造になっています。よくシンボルとして用いられる錨はストックアンカーがモチーフであることが多いのですが、揚収錨時の取扱いのしづらさから現代ではほとんど用いられません。
ストックレスアンカーは写真3にあるように文字通りストックの無い錨で、ストックがないぶん収錨がしやすく、効率的な揚投錨が可能となった錨です。その代わりに、曳かれた際の安定性が低下してしまうのですが、それをフルークが二枚刺さる構造とし抵抗力を大きくすることで補っています。海上輸送が効率化された現代ではほとんどの場合、ストックレスアンカーが用いられています。
まず、ここで使用する基本的な用語を説明しましょう。
総把駐力=錨の把駐力+錨鎖の抵抗力
=(錨の空中重量×水中重量比×把駐力係数)+(単位長さ当たりの錨鎖の空中重量×接地錨鎖長×水中重量比×摩擦抵抗係数)
上の式からわかるように、錨鎖を多く繰り出すほど総把駐力は大きくなります。では、錨泊時に錨鎖はどのくらい繰り出すのでしょうか?
通常時錨鎖長:3h+90m
荒天時錨鎖長:4h+145m以上
ここで、hは水深を指します。また、通常時錨鎖長では風速20m/s、荒天時錨鎖長では風速30m/sまで耐えることができるとされています。このように小さな錨に対して繰り出す錨鎖長がとても長いことがわかります。そのため、船は錨以上に錨鎖の抵抗力によって係留されていると考えられることもあります。では、実際錨の把駐力と錨鎖の抵抗力はどの程度のものなのでしょうか?
例として、空中重量1.8tのAC-14型錨を用いた場合を例に挙げてみたいと思います。実際の中型船舶を一例として、荒天時に水深10mの海域で錨泊するとすると、錨の把駐力係数4、錨鎖1節分の長さ25mを接地していない錨鎖長として荒天時錨鎖長185mから差し引いた接地錨鎖長160m、単位長さ当たりの錨鎖の空中重量0.035t、錨鎖の摩擦抵抗力係数1、水中重量比0.87として計算すると、錨の把駐力は6.26t、錨鎖の抵抗力は4.87tとなります。錨の把駐力係数は底質の種類や底質中での姿勢によって値に幅がありますし、錨鎖の摩擦抵抗力係数も底質の種類や錨鎖の状態によって値は異なりますから必ずしもこの値になるというわけではないのですが、錨が自身より3倍以上もの重量を持つ大量の錨鎖より大きな把駐力を生み出しているということがわかると思います。
錨の把駐力を体験する簡単な方法を紹介します。以下のものを用意してください。
ここでは、おそらく用意がしやすいと思われるシャベルを例として説明します。砂場で写真4~6のようにシャベルを通常の持ち方で砂に刺して持ち上げた場合と逆さに持った状態で砂に刺して持ち上げた場合の腕に感じる負荷を比較します。するとどうでしょうか?逆さに持った場合の方が明らかに持ち上げにくかったのではないでしょうか?この持ち上げにくさが小さな錨が大きな把駐力を生み出す要因となっています。これはシャベルの表面に受ける砂からの抵抗力によるもので、もう少しわかりやすく説明するとシャベルの表面には砂からの抵抗力が垂直に作用しています。そう考えると、受圧面が谷形に湾曲しているシャベルでは砂からの抵抗力は山形に作用していることになります。写真5左のシャベルの上に載った砂の形状を見るとイメージしやすいでしょうか。このとき、逆さに持ったシャベルでは受圧面が山形に湾曲している状態になります。すると、シャベルの受圧面に作用する砂からの抵抗力は扇状に広がりより大きな抵抗力をシャベルにもたらすのです。ここから平たい板で実験しても通常の持ち方をしたショベルより持ち上げにくそうだということが想像できると思います。
この力の作用の仕方はよく効く錨とそうでない錨の仕組みにも大きく影響していて、錨の性能は錨の形状によって決まることを意味します。走錨海難を防ぐためにはこの仕組みを活用して、より大きい把駐力を得られる錨形状を有する新型錨を開発することが重要であり、東京海洋大学海洋工学部ではそのような新型錨の研究開発が行われています。
錨の難しいところは抜けにくければそれでよいというわけではないというところです。錨泊中は抜けにくくなければならないのですが、出航する際は簡単に抜けてくれないと困ります。そのような相反する性能を持たせないといけないのが錨形状についての研究の難しいところなのですが、実はあまり心配する必要はありません。逆さに持ったシャベルを持ち上げる際、シャベルを寝かるようにして持ち上げてみてください。比較的簡単に持ち上がりますよね?これはシャベルの上に載る砂の量が少なくなることで、砂から受ける抵抗力が小さくなるからなのですが、錨を揚錨する際も同様です。錨は水平に曳くときは大きな把駐力を生み出しますが、真上に引き上げると簡単に持ち上がります。船の揚錨機はあまりパワーがないので深く刺さりすぎると必ずしもその限りではないのですが、こうやって実験してみると錨の構造と運用の仕組みが実によく考えられていることがわかります。
船や港のシンボルとして馴染み深い錨ですが、実際にどのようなものか考える機会はあまりなかったと思います。このように今まであまり気にしていなかったような小さな物事に目を向けてみると意外や意外、奥深く面白い世界が広がっているのです。皆さんも是非色々な物事に目を向けて、少しでも気になったら調べてみるようにしてください。きっと今まで気づかなかった新しい世界が見えてくるでしょう。そして、それがあなたの人生の目標になることもあるかもしれません。
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