2024年1月26日
関西地区
京都工芸繊維大学 分子化学系
准教授 布施泰朗
私たちの身の回りには、多くの化学物質製品が用いられています。それらは私たちの生活を豊かに、便利にしていますが、一方で製造、使用、廃棄の過程を通じて環境中に排出される化学物質の有害性が大きな問題となっています。
その1つである多環芳香族炭化水素(Poly Aromatic Hydrocarbons: PAHs)は、化石燃料だけでなく、炭素を含む多くの化学物質の不完全燃焼などによって生じることから、大気中に浮遊粒子として存在し、大気汚染物質として知られるPM2.5の中にも含まれています。また、水環境中にも移行し水質汚染、土壌汚染をもたらします。PAHsには強い発がん性など生物に有害な性質を持つものが多く存在することから、規制対象物質として使用の制限、管理の徹底が求められています。
有害なPAHsですが、環境中に極めて微量にしか存在しておらず、正確な把握は難しいのが現状です。分析装置には検出限界があり、そのような微量な化学物質の濃度を正確に把握するためには、マトリックスと呼ばれる対象物質以外に多く存在する夾雑成分から分離することが重要になります。
PAHsは、PM2.5 1㎥中に数pg(ピコグラム、1pgは1gの1兆分の1)のオーダーで存在しています。PM2.5そのものの重量が数µg~数十µg/m3(µg:マイクログラム、1µgは1gの百万分の1)であることから、計算すると、100万倍以上のマトリックスの中からPAHsを分離する必要があるということになります。最近問題になっている有機フッ素化合物のPFOS(Perfluoro octane sulfonic acid)やPFOA(Perfluoro octane acid)も、正確に定量分析するためには同等またはそれ以上の割合のマトリックスの中から分離する必要があります。
PAHsなど加熱によって気化する有機成分の分析にはガスクロマトグラフィー質量分析計(GC-MS)が用いられます。気化した試料中には多数の化学物質が混在していますが、分離カラムと呼ばれる特殊な加工を施された細くて非常に長い配管を通過する過程で個々の物質に分離され、どのような物質がどれだけ存在するかが明らかになります。しかし、共存するマトリックスが多すぎると十分に分離することができませんし、場合によっては分離カラムや分析装置に化学物質が残存してその後の分析に支障をきたすという問題が発生することもあります。分析装置に導入する前に、分析対象物質をターゲットとして、なるべく簡便な方法で、マトリックススから正確に分離することが非常に重要になってきます。
私たちの研究室(環境科学研究室)では、様々な環境中に存在する化学成分を対象として、その化学物質が何から生じ、環境中をどのように移動しているのかを正確に把握することを目指しています。大気中に浮遊する粒子状物質の他にも、例えば、琵琶湖などの湖沼中の有機物質(溶存態物質、懸濁態物質、底質)、モスツンドラ湿原やマングローブ林など環境変動の影響を大きく受けている地帯の土壌中の有機物、廃棄物焼却処理施設の各処理過程で生成・消失する化学物質など、多様な物質を対象とし、分析技術を駆使して研究を展開しています。
私たちは、研究のために日常的に使用している分析装置を用いて、簡便かつ正確で再現性にも優れたPAHsの分離・分析法を開発することができました。以下にその方法の概略を紹介します。
ヘッドスペース(HS)サンプラーは、液体または固体のサンプルをバイアルと呼ばれる小さなガラス容器に封入し、加熱後にバイアル上部の揮発性成分をGC-MSに導入する装置です。主に排水中の規制物質である揮発性有機化合物 (VOCs) の分析に使用されてますが、香気成分分析、医薬品の残留溶剤分析など様々な用途への応用が期待されています。
私たちは、試料を封入するバイアルのキャップを閉める際に使われる部品であるセプタムの表面が親水性になるように加工し、さらにバイアル中にトルエンを添加するという簡便な方法を用いることで、PAHsの分解やバイアルへの吸着を抑制し(図1)、それまで困難とされてきた、HSサンプラーによるPM2.5マトリックスからの効率的なPAHs抽出方法を開発しました。これによって、これまで全く検出されていなかった成分も従来法以上の感度で分析できるようになりました(図2)。
熱脱着(TD)サンプラーは、固相吸着剤(液体、固体、気体のサンプル中の有機成分を吸着させる)または試料そのままを入れたチューブを加熱して生成する(熱脱着する)揮発性成分をGC-MSに導入する装置で、大気中の汚染物質の分析や食品中の風味成分の分析など、幅広い用途に使用されています。
私たちは、チューブの石英ガラスと試料を吸着させた石英ろ紙の表面が親水性であるのに対しPAHsは疎水性の有機化合物であることに着目し、PAHsの熱脱着率を向上させるため、界面活性剤を助剤として添加することを考案しました。界面活性剤は、親水性と疎水性官能基から構成され、高温環境において界面活性剤の疎水性部がPAHsを包み込み、親水性部がろ紙に入り込むことでPAHsをろ紙から効果的に熱脱着することができます(図3)。これによりPAHsが高い回収効率でGCに移動し、高感度分析が可能になります。界面活性剤は分子量が大きく高温でも揮発せず、チューブ内に残るため、装置の汚染リスクもありません。
化学物質はさまざまな形で環境中に排出され、生態系や私たちの健康に悪影響を及ぼしています。この問題を改善に導く科学的なアプローチの第一歩が、環境中にある多彩で微量な化学物質を正確にとらえ、評価することです。さまざまな環境試料に対して、それを速やかに行うためには、より簡便で汎用的な分離分析技術の開発が必要になりますが、これまで示してきたように、新技術はほんの小さなアイデアや工夫で生み出すことができます。
私たちは、これからも環境中の化学物質の動きを正確に把握するための技術を開発し、待ったなしの環境問題の解決に貢献していきたいと考えています。
掲載大学 学部 |
京都工芸繊維大学 工芸科学部 | 京都工芸繊維大学 工芸科学部のページへ>> |
私たちが考える未来/地球を救う科学技術の定義 | 現在、環境問題や枯渇資源問題など、さまざまな問題に直面しています。 これまでもわたしたちの生活を身近に支えてきた”工学” が、これから直面する問題を解決するために重要な役割を担っていると考えます。 |